「トジュンはどこまで知っているんだろう」
「オープニングのダンスの意味は何だろう」
『母なる証明』を見て衝撃を受け、監督がどう考えて撮影したのか知りたくて韓国語のインタビューを調べていたら、思いもしなかった演出意図を知ることになりました。
出典:NAVER영화:마더
実は『パラサイト 半地下の家族』がカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞した頃、韓国では祝福するニュースがほとんどでしたが、一部でポン・ジュノ監督について論議が起きていました。(※論議については下に記載)
ちょうどカンヌで監督の話題が多かったのもあり、過剰反応したネチズンが『母なる証明』など過去の監督のインタビュー記事も引っ張り出して問題が拡大、幸か不幸か、その騒動のおかげ?で私は何年も前の貴重なインタビュー記事を目にすることになりました。
それらの記事は現在、削除されてしまっていますが、そのうちの一つ、映画専門マガジンで『母なる証明』の公開2年後、監督が内容について赤裸々に語っているインタビューは、他では見たことがない衝撃的な内容でした。
日本ではあまり知られていないこの騒動に加え、この内容も書くべきか迷ったんですが、私個人としては、芸術表現としてそんなふうに考えて撮影していたのか!とかなり目から鱗で、とても興味深い内容だったので書くことにしました。
また、監督が解説してくれてる動画見たさに、11年も経った『母なる証明』のカフェ(韓国のオンラインコミュニティ)の会員になったのは私ぐらいでしょう笑。
おそらく今まであった『母なる証明』の解説、レビューとはちょっと内容が違うと思いますので、監督や映画について深く知りたい方、本質的なことや芸術表現に理解のある方のみ見ていただければ幸いです。
※論議について
発端はカンヌで受賞する少し前、『母なる証明』の白黒版の上映会があり、その後に開催された主演のキム・ヘジャさんとポン・ジュノ監督のトークライブでの内容でした。
キム・ヘジャさんが話した内容、寝ているシーンで息子のトジュンに急に胸を触られてびっくりしたという話が、監督が事前に合意をとらなかった”ME TOO”じゃないかと問題になりました。
その後キム・ヘジャさん曰く、本人がおもしろくしようとして話した内容で(実際にそう前振りしてました)、監督からの事前の説明はあったとして、監督やウォンビンさんに申し訳ない、”ME TOO”だなんてとんでもないと説明があり、監督側からも一連の事情説明がありました。
ヘジャさんはこの騒動で救急室に2回も行ったそうです。監督は自分が子供の頃から活躍しているキム・ヘジャさんを「先生」と呼ぶほどなので、雰囲気もいい公の前で発言を訂正することはしなかったようです。
- まだ映画を見ていない方はこちらをご覧ください
『母なる証明』ネタバレなし感想:肯定も否定もない狂おしい母の愛と人生、そしてダンス - 一部性的な表現がありますので、苦手な方はお控えください
タップできる目次
『母なる証明』の根幹となる脈絡2つ
母親、母性は果たして美しいだけなのかという問い
この映画の主人公の母親には役名がついておらず、他の人からも単に「母」と呼ばれています。
この母親は韓国式母親の極端な例ではあるものの、監督は役名をつけずに母そのものを描こうとしたのがわかります。
単純で本質的なものを掘り下げる作品を撮ってみたかった。母親というテーマはすべての源となる原始的なものだが、最も身近な存在である母親の極限の姿を映画的にとらえてみたいと思いました

出典:NAVER영화:마더
そもそも監督がこの映画を企画した発端の一つには、韓国で”国民の母”と言われているキム・ヘジャさんの温かく典型的な母親のイメージを破壊することでした。
ポン・ジュノ監督の描く母親は、ケガをした自分よりも息子を心配し、警察や弁護士に見放されても息子を守ろうと奮闘する強い母であると同時に、
被害者のお葬式に行って息子の潔白を叫んだり、息子を思うあまり人を殺めてしまったり、無実とわかっていながら息子の代わりに犯人になってしまった犠牲者をそのままにする母親でもあります。

出典:NAVER영화:마더
子供を守る、子供のためなら何でもできる母親、母性は神聖化されがちですが、ポン・ジュノ監督は果たして母性は美しいだけなのか、母親の賛美される部分だけでなく、陰ともいえる部分まで含めた母親の本質を、肯定も否定もせず私たちにつきつけてきます。
実はセックスに関する映画だった
この見出しだけで誤解してほしくないのですが、前述した「母親の本質」を描くのがメインで、こちらはサブテキストの脈絡です。
サブテキスト (言外の意味)または ポドテキスト(ロシア語)とは創作物の中で、登場人物や著者が明示的に文字としては現していない事柄を指す。物語が進行するにつれて、聴衆や読者がその内容を察することができるようになるものである。またサブテキストはストーリーの中では副次的にしか扱われていない登場人物の考えや動機に関する内容も含む。さらにサブテキストは物議を醸しかねないテーマを取り上げるためにも使われる。
映画公開から3年後、日本での監督インタビューでもそのさわりとなるような記事が残っています。
「母親とセックス、二つのイメージの衝突が必要だった」
この映画ではどんどん母親を女性として認識させるのです。始めはドジュンが母親と一つのベッドに横になり、胸をさわる。その後母親がジンテのセックスを盗み見し、女子高生の生理用ナプキンの話が出て、結局事件に関係あると思われる老人がいる小屋に行きます。この話の中では、ストーリーから離れているようにも見えますが、これも一つの大きな流れなのです。その後、母親が老人の上に乗り、まるでセックスの体位のように座る。そして、クライマックスで顔に血しぶきを浴び、血に染まった床を拭く。
正直、誰しも母親とセックスって結びつけて考えたくないですよね…。
親と性的な話をするのは日本でも韓国でもタブーな家庭がほとんどだと思います。でもよく考えると、誰もが父親と母親のセックスから生まれたんですよね。
監督はインタビューでこうも続けています。
私たちは無意識のうちに母親という存在を、キム・ヘジャという人をセックスと隔離させようとしていたのです。結局は、息子は父親とのセックスで生まれたのですから。それがとても皮肉なことだということを見せたいと思ったのです。そのためにこのような衝突が必要だと考えました。私たちは認めたくはありませんが、明らかに存在する母親の姿との衝突を。
確かに、セックスしたから母親になったとも言えます。
この映画は冒頭からトジュンが母親と寝たというセリフや、母親が息子に精力がつくと食べさせながらトジュンの女性関係を探ったり、ジンテとミナのセックスをのぞくことになったりと、けっこう性的なものを感じさせられるシーンがありますが、
殺された少女の周辺を調べているうちにわかったこと、少女がしていたこと、複数の男性たちなど、気づけば話の中心に性的なものが占めてきます。

出典:NAVER영화:마더
母親が必死になって犯人を捜しまわり、廃品回収の老人の小屋へ行った時、遠慮がちに母親は座り、老人は重い引き戸を閉め、私はなんだかこれからセクシュアルなことが起きてしまうんじゃないかと、ふとドキッとしたんです。
でもまさかそんなシーンでもないだろうに、なんでこんなこと思ったんだろうと自分がおかしいのかと思いました。
そこへ例の論議になった監督の過去のインタビュー記事を読んで、納得がいきました。
残念ながら現在は記事自体が削除されてしまっているんですが、『母なる証明』が実はセックスに関する映画であり、特に廃品回収の老人を撲殺する場面ではセックスをするように撮ったというのです。母親がスパナで殴る時、姿勢もわざと古物商の老人の上に乗った姿勢で、顔に血しぶきを浴びるのも、性行為をしたときのように顔に液体が飛び散るように撮ったそうです。
セクシュアルな感じがしたものの、そこまでリアルに考えられているとは思いもしませんでした。
普通、撲殺シーンなどはどれだけその状況を見せるか、殴られている場所を見せるか見せまいかなどに気をつかうと思うんですが、監督は全く違う観点で撮影していたんですね。
それにしても撲殺シーン自体も衝撃的でしたが、監督の演出意図も衝撃的で目から鱗でした。これでこの章の最初に紹介した日本のインタビュー記事の内容がよくわかります。

出典:NAVER영화:마더
この映画をセックスの観点で見ると、母親はセックスとは関係のない世界にいました。それが事件を追っていくうちに、距離をおいていたセックスにどんどん近づいていきます。
ジンテとミナのセックスをのぞき見てしまったり、被害者の少女が関わっていた複数の男性との行為に首を突っ込むことになり、しまいには廃品回収の老人と比喩的にセックスをすることになるのです。
ポン・ジュノ監督はそんな世界とは一番遠いように見えた乾いた母親が、そうしたじっとりした世界に行くのを描くために、美術監督と”乾いた世界とじっとりした世界”に分けることもしたそうです。
確かに漢方薬を売っている母親はドライなものに囲まれた乾いた世界に生きていました。
ジンテとミナのセックスをのぞき見た後、こぼした水がじわっと広がっていったり、土砂降りの中を歩いて警察に行ったため水がしたたったり、そして廃品回収の老人の小屋に行く前には泥のぬかるみに足を滑らせています。
ストーリーとは直接的に関係ないシーンですが、そうした演出意図があったんだと後から気づくのも興味深いですね。
ただ、今まであった母親がテーマのものと全然違うので、この章の内容を読んで不快に思う方もいらっしゃるかもしれません。
それこそが監督の目的であり、目をそらしている私たちにありのままを見せようとしたんじゃないでしょうか。
映画に限らず芸術一般的に本質を突き詰めていくと、生と死、生と性と聖など、相反するようで共通するここに行き着くような気がします。
シーンや内容についての解説
オープニングとエンディングのダンスの意味
冒頭で唐突に始まったキム・ヘジャ先生のダンスを観た観客は、おそらく不気味に感じたはずです。冒頭でいきなりダンスのシーンを入れたのは、キム・ヘジャ先生の映画であることを伝えたかったのと、狂気を感じさせ、気が触れたような表現を撮りたかったためです。そのシーンは2004年から構想を練っていた時点でありました。
この映画を紹介する時によく言われているのが、「キム・ヘジャのためのキム・ヘジャの映画」です。
まさにキム・ヘジャさんがいなかったらこの映画自体なかったでしょうし、監督もキム・ヘジャさんが受けてくれなかったら、やめるつもりだったと言っているくらいですから。
また、普通はカメラが主人公を追っていくのが普通ですが、このシーンではキム・ヘジャさんがカメラに向かってきます。監督曰く「これはキム・ヘジャの映画だ」といわんばかりに。

出典:NAVER영화:마더
監督は他のインタビューで、このオープニングについて宣戦布告だとも言っています。
「映画のオープニングというのは、監督と観客の間で交わされる“約束”。今回の場合は突然、母親が出てきていきなり踊り出しますよね。キム・ヘジャさんの表情にも狂気がにじみ出てて。この映画がこの女性のように、常軌を逸していくかもしれないということを、観客に宣戦布告してみたかったんです」。
観客からしたら、ある意味狂ってしまったような表情で踊るこのダンスは何なんだろうと、かなりのインパクトを与えたのはまちがいありません。
このオープニングはストーリー上なくても問題ないシーンですが、これだけのインパクトと余韻を与えることができ、監督の意図もさることながら芸術として秀逸な表現だと感嘆してしまいます。
タイトルショットで手を服に入れるシーン
そして『마더(マザー)』のタイトルが出る時、キム・ヘジャさんが手を服にいれる場面がありますが、
手は罪と繋がっており、手を隠すことは、罪を隠すということです。元々シナリオにはなかった設定ですが、時間が残り色々なカットを撮影していた時に、キム・ヘジャさんに「手を入れてみてください」と注文しました。妙な表情で入れていました。その感じが良くて、タイトルのショットに選びました。
タイトルショットで手を隠し、罪を隠したその経緯を観客は見ていくことになります。
エンディングシーン
オープニングはキム・ヘジャさん1人のダンスでしたが、エンディングでは大勢のおばちゃんたちとの群舞でした。
なぜバスの中でダンス?と思った方はこちらの韓国情報をご参照ください。
>>『母なる証明』ネタバレなし感想:肯定も否定もない狂おしい母の愛と人生、そしてダンス
エンディングは太陽を背景に踊っているシルエットがとても印象的ですが、このシーンをとるために太陽の角度を計算して日程を組み、一回で撮ったそうです。
監督はキム・ヘジャさんに観光バスでおばちゃんたちが踊るダンスを注文したんですが、ヘジャさんが一度もしたことがなかったそうで、ある婦人会を招いて実際に見せたとのことです。
このダンスは本来、トロット音楽(日本でいう演歌だが、明るい曲調)を流しながら踊る陽気でノリのいいものなんです。
でも、ヘジャさんが映画の母親の心情で、狂ったようななんともいえないダンスにしてしまっているのにただ感心してしまいます。
またこのシーンを演じたキム・ヘジャさんは「ただ死にたかった。息子が火事現場にも行ったし、全てを忘れたかった。どうにでもなれ、ケセラセラだった。」とそのダンスシーンの心情を話しています。
鍼を打った後、踊りだして大勢の母親たちの中に溶け込んでいくのも、「全ての母親の気持ちのようだった。子どものために殺人もできるし、そういうことが全ての母親がそうだと思った。」とヘジャさんは語っています。
この映画はキム・ヘジャさん演じるトジュンの母親の話ですが、最終的には全ての母親の話、自分の母親かもしれないし、あなたの母親かもしれないし、そうした母親全員の話として作られているのを、このエンディングで感じられるんじゃないでしょうか。
※インタビュー動画:스타체어(Star Chair) 세번째자리 – 배우 김혜자 With 봉준호감독
トジュンはどこまで知っているのか?
ここからは主に当時の公式サイトにアップされている監督の解説動画(会員のみ閲覧可)を基にしています。
覚えているはずがないと思っていた5歳の頃のことを思い出したり、母親の鍼道具を「忘れちゃダメだよ」と渡したり、何もわからないだろうと思っていたトジュンはどこまで知っているんでしょう?
シナリオを書いて、映画を撮った監督自身も同じように思いながら撮ったといいます。謎を深めようとしているわけではなく、実際にそうだったと。
監督は『殺人の追憶』の時、最後に出てくる容疑者を撮りながら、「この人が本当に犯人なんだろうか、本当に犯人だったらいいのに。でも、この人が潔白であるかもしれない」という可能性を広げたまま撮影したケースと似ていると話しています。

出典:NAVER영화:마더
「核心的にはトジュンは知ることのできない人。この映画は母親の視点で息子のトジュンを見るようになっているが、母親の視点でさえ知ることができないから、それがこの映画の悲劇であり悲しみになっていると思います。
こういった面から考えると、トジュンというキャラクターは演技が難しく、描写が大変な役ですが、観客からこう質問がでるような演技をしてくれたウォンビンさんに感謝します。知ることのできない曖昧さ、知れそうで知ることができない霧の中の人物、これをウォンビンさんがすばらしく演技してくれたと思います。」
なぜ母親はトジュンが出所した時迎えに行かなかったのか?
トジュンが出所した時、あれだけ息子を助けようと駆けずり回った母親はおらず、一人で帰ることになります。(途中でジンテとミナが車で来ますが)

出典:NAVER영화:마더
ちょうどこの前のシーンが母親がジョンパルと面会するシーンでした。
母親はジョンパルが無罪であることを知っていますが、息子の代わりに罪をかぶることになったジョンパルを前に、嗚咽するしかできない苦しく悲しい場面です。
まさにここで母親がジョンパルに投げかけた言葉、「お母さんはいないの?」というセリフがこの映画の名セリフとしてよく取り上げられます。
警察や弁護士や社会的に見捨てられたトジュンには母親がいて、唯一の味方となって助けてくれたのに、このジョンパルにはその母親もいない。それでトジュンの母は嗚咽するのです。
監督によると、母親はトジュンを迎えに行かなかったのではなく、行けなかった。母親の立場で、ジョンパルに対しての最小限の礼儀ではなかったかと思うと話しています。ジョンパルの前で涙を流しておいて、図々しくトジュンを迎えに行って、喜んでトジュンを迎えることができなかっただろうと。
また監督も、母親とジョンパルの面会のシーンで、元々とても悲しい旋律のBGMを入れていたそうですが、最終的にとったそうです。
音楽があればもっと悲しい方にもっていけただろうけど、ここは道徳的なジレンマがある場面であり、音楽を入れるのは少し無理があるんじゃないか、監督として、また演出者として、これはジョンパルに対する最小限の礼儀ではないかと思ったと話しています。
記憶を忘れさせてくれるツボは本当にあるのか?
これは監督の創作だそうです。
このツボを考えるにあたり、母親がどの場所に鍼を打ったら寂しく悲しく見えるか、誰かに打ってもらうわけでもなく、自ら自分の体に打った時、どこに打ったら一番悲しく見えるかがポイントだったそう。
女性がスカートをまくって太ももに鍼を打ったら、女性らしく寂しく悲しいんではないかと考えたそうです。
キム・ヘジャさんが一番難しくて泣いた場面とは
こちらは前述のインタビュー動画からですが、ベテランのキム・ヘジャさんがどうにもうまく演技ができなくて泣いたシーンがあったそうです。
それはまさにトジュンが母親に鍼治療の道具を渡すシーン。
台本には「言い表せない表情」とだけあったそうです。監督は自分の陳腐な形容詞を使って限定したくなかったからこう書いたとのことですが、ヘジャさんはどんな表情をしたらいいか悩み、うまくできずに待機するバスで泣いたとのこと。
監督曰く、メッシがドリブルがうまくできない、トルストイが小説をうまく書けないと言っているようで、まわりがとやかくいうことができなかったそうです。ヘジャさん本人が納得いかなかったんでしょうね。
破いた写真に写っていたのは誰?
母親が写真を破ってトジュンの部分だけ写真屋へ持っていき、修正してもらいますが、この破った写真に写っていたのは誰でしょうか。
これは予想通りトジュンの父親、母親の夫だったそう。
『パラサイト』でもそうでしたが、だいたい内容はわかるけど、ギウがノートに何て書いたのかとか、何て言って家政婦をやめさせたのかとか、はっきり出てこないところがあります。
監督は『パラサイト』でのインタビューで、全部見せないことによって観客がよりストーリーに没入することになると話していましたが、これも同じですね。
最後に:『母なる証明』と『パラサイト』との類似点
最初は『母なる証明』を見て、『パラサイト』の10年前の映画にもかかわらず、原型ともいえるような要素が入っていることに驚きながら解説を書こうと思ったものの、思いもよらなかったサブテキストの脈絡を知ることになりました。
『パラサイト』との類似点は、ジャンルが絞れなかったり、ブラックジョークがあったり、結末について考える余地を残したりといくつかありますが、わかりやすいのは他人のセックスをのぞき見て(居合わせて)しまうことではないでしょうか。
監督はこういう場面を見ている観客が、居心地悪くなるように仕向けるのが好きだと『パラサイト』のインタビューでも話していましたが、そうすることでストーリーへの集中度が高くなり引き込まれていくんですね。
サブテキストの脈絡について、論議となったインタビュー記事を読んだときは衝撃的でしたが、同時にこんな演出意図があったのか!ととても興味深く思いました。
中には不快に思う方もいらっしゃるかもしれませんが、この記事を読んだ方が性的な表現だけで判断せず、監督がなぜ母親とセックスを衝突させたか、母親そのものの本質を描こうとした意図が伝わったら嬉しいです。
そして、最後にまた映画全体を振り返ってみると、内容もさることながら映像的にも脳裏に焼き付く濃く深い映画でした。
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