『モガディシュ 脱出までの14日間』は、実際どこまで実話なんでしょう?
この作品に感激した私も、どこまで実話なのか知りたくて韓国メディアを調べてみたら、なんと、さらにドラマチックなことがわかりました!!
ネタバレになっているため、映画を見てから読んでくださいね。
根拠となる資料
1991年までソマリア大使として勤務し、南北の一行を率いてモガディシュを脱出したカン・シンソン前大使は、その経験をもとに小説『脱出』を執筆。
↓ご本人です!
その2部「ソマリア脱出記」で、映画で描写されたソマリア内戦勃発と南北公館員のモガディシュ脱出のエピソードが書かれています。
実在人物は仮名、南北大使は姓だけを変えて、名前はそのまま記述されてるんだって
韓国のWikipediaともいえる”ナムウィキ“には、 この本の内容が実話という前提のもとで、映画との違いが記述されているので、これを要約してまとめました。
- カン・シンソン大使の帰国直後の新聞インタビュー
- カン・シンソン大使の映画公開後の新聞インタビュー
- 北朝鮮側として当時北朝鮮外務省に在職していたテ・ヨンホ議員の新聞インタビュー
内容に違いがある箇所は、インタビュー記事の方を優先しました。
登場人物と実在人物
韓国大使館の人たち
映画では6人(大使夫婦+参事官+書記官夫婦+事務員)になっていますが、実際にいたのは7人(大使+参事官+事務員夫婦+僑民3人)でした。
※僑民:海外在住の国民。イ・ギュウ氏家族。
ハン・シンソン大使
主要人物の実名は少しずつ変えられています。
当時、韓国大使の実名は前述したカン・シンソンであり、小説ではチャン・シンソン、映画ではハン・シンソンとなっています。
映画では時代を反映して、わざと韓国式英語にしてるんだって…
カン・テジン参事官
実際に脱出した参事官は、韓国から来た安全企画部(情報機関・秘密警察)の要員ではなく、もともとソマリア大使館で勤務していた職員なので、映画でのコン・スチョル書記官に近いんだそう。
カン・デジン参事官と似た人物は小説に2人登場します。
「キム事務員」は韓国から派遣された行政職員であり、デモ勃発後、市内官公署が閉鎖したことに初めて気づく人物であり、
ソマリア現地の僑民「イ・ギュス」(実名:イ・ギュウ)は北朝鮮大使館の一行を助けようという大使に反対したりと、いろいろと目立つ行動をした人物。
カン・デジンはこの二人を混ぜて創作したキャラクターのようです。
カン・デジン参事官がクラクションを鳴らし、警察幹部と言い争ったのは映画での設定で、実際には普段からよく知っていた空港守備隊長兼前警察局長に賄賂を握らせて警備兵力を呼んだんだそう。
ソマリアから脱出する1日前にこの警備は解かれましたが、映画では彼らがお金をもらえずに勝手に逃げたように描写されている一方、小説では韓国の僑民イ氏がなりゆきで彼らを追い出したことになっています。
大使夫人
大使夫人は内戦勃発直前にソウルに戻りましたが、映画では夫と共に滞在していることになっています。
運転手
大使館で働いていた運転手が反軍として警察に殺された描写は映画での設定であり、実際に働いていたソマリアの雇用人は多数いたものの、内戦が始まってからはほとんど出勤しなかったとのこと。
北朝鮮大使館の人たち
帰国直後のカン前大使のインタビューによると、
キム大使夫婦と外孫(5)、参事官夫婦、一等書記官夫婦と息子(4)、ハン・サンニョル通信技師(兼運転士)夫婦と息子(7)、もう一人の通信技師(兼運転士)夫婦と娘(3)と、あわせて14人。
リム・ヨンス大使
北朝鮮大使の実名はキム・ヨンスであり、映画ではリム・ヨンスとなっています。
テ・ジュンギ参事官
テ・ジュンギ参事官も、小説に登場する安全保衛部から派遣されたキム・テジョン(仮名)参事官兼大使代理と、ハン・サンイル(実名:ハン・サンニョル)3等書記官を合わせた人物と見られます。
キム・デジョン参事官は保衛部(情報機関・秘密警察)出身だったので、普段は韓国大使館を見るだけでも威嚇するほどだったようですが、ケニアで別れる直前にはカン・シンソン韓国大使にとても感謝したそうです。
ハン氏は、心臓を銃で撃たれた状態でイタリア大使館まで車を運転してきた後、大使館の中で息を引き取りました。
ええっつー!!撃たれた状態って…
その他人物
実際にはルーマニア大使代理アンドレア・ゲオルジもモガディシュ脱出に同行しました。
映画や小説には登場しませんが、実際にはモガディシュ空港から北朝鮮の人々と行動を共にしています。
実際のソマリア外交は韓国有利だった
映画では両国がお互い外交妨害する様子が描かれていますが、1990~91年当時、ソマリア外交戦では韓国がほぼ勝機を握った状態でした。
映画のように、北朝鮮は韓国より20年も前にソマリアと修交し、1970年代初めから経済・軍事的支援を惜しまなかったのですが、ソマリアは1989、90年と続けて韓国の国連加入を支持する発言を行い、他のアフリカ隣国の支持を導く役割もしていたとのこと。
なぜなら1983年のラングーン事件、1988年のソウルオリンピック以降、韓国と北朝鮮の国際的地位はもう戻れないほど広がり、アフリカ大陸でも北朝鮮の影響力は急速になくなっていたからです。
【注】ラングーン事件とは
ビルマの首都ラングーンで起きた、北朝鮮工作員による爆弾テロ事件。
ビルマを訪問中だった韓国の全斗煥大統領の暗殺を狙って起こされた。大統領は車が2分遅れたため難を逃れたものの、韓国の副首相や外務部長官ら17名、ビルマの閣僚・政府関係者4名を含む計21名が爆死。負傷者は47名に及んだ。
ラングーン事件自体、アフリカ諸国や南アジア太平洋地域を歴訪してソウルオリンピック参加を説得していた韓国に対し、北朝鮮が外交的な危機感から起こしたものと見られます。
テロ事件を思えば、映画での外交妨害はまだいい方なのかも…
この事件により、ビルマは北朝鮮との国交を断絶。多くのアフリカ諸国もソウルオリンピックに参加することになりました。
ビルマの「建国の父」であるアウンサンの墓所で爆破、テロに利用されたら怒るよね…
映画でもソウルオリンピックのマスコットやら、開幕式のビデオやら、随所に見られますが、韓国にとっては世界的に認められた誇らしいオリンピックだったのに対し、北朝鮮にとっては忸怩たる思いがあって当然でしょう。
韓国大使館に北朝鮮一行が入った時に、韓国文化に接するのを禁じられている北朝鮮の人たちは子供の目を隠しますが、ソウルオリンピックのマスコットから目を隠していたのが印象的でした。
こうした背景を知るほど、韓国と北朝鮮の人が同じ屋根の下で過ごすことがいかに難しいことだったかわかります。
南北の出会いは空港
実際には、韓国大使館の人たちはイタリアの救助機を一度逃しています。
交信中に誤解が生じ、着陸地点を間違って知ったため、1991年1月9日、韓国一行は、イタリア軍用機が空港に来ると思って空港で待っていたものの、実際には軍事基地に着陸してイタリア僑民だけを乗せていったとのこと。
この時、カン・シンソン一行は無駄足を踏んだものの、空港で出くわしたのが北朝鮮のキム・ヨンス一行でした。
モガディシュはすでに荒地となっており、武装集団が政府の建物、大使館、一般住宅を端から略奪し、街には銃声が溢れている状況。 通信も途絶え、連絡する方法もない。
すでに北朝鮮大使館は8回も武装強盗が押し寄せ、小さいスプーンまで取っていかれた後で、戻ったところで死ぬだけだと、ともかく空港で救助機を待つつもりでした。
8回も!?
しかし当時空港は、政府軍と反軍が互いに先取りするために武力衝突を辞さない戦略的要衝地だったため、カン大使は、危険な空港にとどまろうとする北朝鮮一行を説得し、まず韓国官邸に行くことを提案しました。
つまり韓国側から助けを出しましたが、映画では北朝鮮一行が直接訪れて助けを求める描写になっています。
カン前大使は、映画では北側が先に助けを求め、韓国側がしばらく拒絶するシーンが残念だったみたい…
南北外交官は、空港で会う前には個人的に交流をしたことがなく、当時、北朝鮮のキム・ヨンス大使は赴任したばかりだったこともあり、カン大使は彼を遠くから一度見たぐらいでした。
一方で、キム・デジョン参事官が外交官パーティーに参加した時、韓国大使にいきなり文句をつけてきた話もあるので、北朝鮮大使館の人と話した経験自体がなかったわけではないようです。
空港で出会った時、キム大使がカン大使に会うなり発した言葉は、「こんな戦渦で、余裕満々ですか?ネクタイまでしめて。」 だったそうですが、カン大使は「私たちの家(韓国大使官邸)に行こう。 警察6人が守ってくれていて安全だ」と連れてきたとのこと。
韓国大使館での共同生活
カン前大使のインタビューによると、南北両国が一緒にすごしたのは3泊4日。
初めての食事のことも印象的に語られています。
北朝鮮の人々が私たちの官邸に来て、自分たちの公館の庭に埋めていた米、野菜のような副食をすべて持ってきたんです。 「これで一緒に食べよう」と言って。 それで一緒に夕食を作って食べました。
その他、北朝鮮の女性たちが持ってきたヨルム(大根の葉)でキムチを漬けてくれたり、子供たちはよく笑って遊び、室内にエアコンを入れてテレビでアニメーション映画を見せてあげたら喜んだと。
自家発電機で必要な電気を作り出すことができたため、映画のようにずっとろうそくをつけて苦労したわけでもなかったようです。
キム大使は、男はともかく、女子供たちが危険にさらされるのに耐えられず、韓国の官邸に来ることにしたと打ち明けたそうですが、この時カン大使は、彼もやはり政治思想がなければ、ただの平凡な一人の人間にすぎないことを悟ったと話しています。
たまたまその国に生まれただけなんだよね
イタリア大使への説得は4時間
1つの家族となった南北一行は、映画のとおり、韓国側はイタリア大使館へ、北朝鮮側はエジプト大使館へ助けを求めることに。
エジプト大使館は本国のカイロ駐在北朝鮮大使館と韓国総領事館に彼らの安否を伝えてくれたものの、救助機は協力してもらえませんでした。
代わりにイタリア大使館は「二日後、軍用機が来る予定だから韓国側公館員だけ先に乗って抜け出せ」という返事。
これに対しカン大使は、
イタリア大使に「私が北朝鮮大使館の人をみんな連れて行って、どうやって私たちだけ抜け出せるのか。そんなことはできない」と言いました。死のうが生きようが一緒に出ると… 。そうでなければ、私たちは公館に戻って戦争が終わるまで待つと言いました。そうしたら、追加で飛行機を確保してくれました。
1991年帰国直後の新聞記事には、イタリア大使に4時間も説得したとあります。
映画では、北朝鮮側が転向するように見せかけていましたが、実際にはそういったことはなく、イタリア側も転向の可能性に言及しなかったそうです。
北朝鮮のキム大使は、最初はイタリアと修交がないため、難色を示したものの、武装強盗たちから女子供たちを守る方法がないため、結局は韓国側の提案を受け入れました。
イタリアのマリオ・シカ大使は、映画や小説で本名そのまま登場する数少ない人物だよ
イタリア大使館まで車での脱出劇
映画では車4台でしたが、実際には車6台で大使館を脱出。
イタリア大使館まで車で約10分、市内各所で銃撃戦が繰り広げられていて、無我夢中、何も考えることができなかったと。
車両がイタリア政府軍が配置された大使館後門に近づく頃、突然70~80m前方で車両を反軍と誤認した政府軍が集中射撃を開始。
先に行っていた数台は急カーブしてなんとか避けたものの、真ん中を走る車を運転していた北朝鮮のハン・サンニョル通信技師(36)が左胸に銃を1発撃たれました。
彼は片手で胸をつかみ、血を流しながらもハンドルをはなさずに1分余り超人的な意志と使命感で運転を続けて、安全地帯である大使館後門に到着。
すぐに応急処置をしたものの、ハン氏は息を引き取り、この日午後10時、南北の公館員によってイタリア大使館の敷地内に埋葬されました。
映画よりも映画みたい…
車の防弾装置はなかった
実際には、外交官車ということを知らせるために太極旗(韓国の国旗)だけを吊るして行き、映画にあったように本と砂袋で車を覆うことはなかったそう。
監督は、これだけ多くの人がイタリア大使館まで防弾装置なしで行き、犠牲者がたった1人だけというのが奇跡的だったので、観客に最小限の説得装置を作らなければと思って追加した設定だと明らかにしています。
映画であれだけ射撃されたら実際には犠牲者が多いんじゃないかと思ったけど、本当に奇跡だったんだ
振ったのは白旗ではなく太極旗
死力を尽くしてイタリア大使館まで行ったものの、映画のようにすぐにはドアを開けてはくれませんでした。
それで私たちは車から降りて必死に太極旗を振りました。北朝鮮外交官も一緒に太極旗を振ったんです。北朝鮮の人の手で太極旗が振られたんです。理念を超えてお互いに生きていこうということでしょう。
映画では白旗でしたが、実際には太極旗、つまり韓国の国旗を北朝鮮の人が振るなんて、それだけでもすごいことです!
それだけ生きるか死ぬかの分かれ目だったんですよね。
救助機で脱出
救助機が到着する日、イタリア市民と南北大使館の人たちが空港に移動する間、政府軍と反軍が交戦しないように、イタリア大使館がソマリア政府に対して事前に措置を取っていました。
カン大使は、ハン氏の死で怖がっている北朝鮮の女性2人と子供4人をイタリア大使が乗っている防弾車に乗れるように頼んだといいます。
ここからまた予想外のことが起こるのですが、空港に到着すると、突然、100人以上いると思われるソマリア人たちが搭乗許可もあてもなく救助機に乗ろうと走ってきたそう。
防弾車に乗った人たちは無事に乗ることができたものの、一般車両に乗った南北一行は、最後まで人波に押され、倒されて…、紆余曲折の末、なんとか救助機に乗り離陸。
国際赤十字マークをつけたイタリア軍用機2台にソマリア難民300人と一緒に搭乗、 2時間半後の午後7時30分、ケニアのモンバサに無事到着しました。
別れの挨拶
ケニアに到着すると、すぐ外に出る前に、北朝鮮大使がカン大使のところに来て、 感謝の言葉を述べるとともに、「今ここで別れた方がいい」と言ったそうです。
カン大使は、ケニアにホテルも準備しておいたので「一緒に行こう」と提案しましたが、北側は「そうはできない」と断固として断ったそう。
その時気づきました。 彼らがソマリアを離れても韓国の世話になれば、平壌に戻って大変な目にあうんだろうな。 それで私も思ったとおりにしてと言って、別れの挨拶を言ったんです。
映画とは違い、モンバサ空港には安企部要員ではなく、ケニアの韓国僑民が南北大使館一行を待っており、北朝鮮朝鮮労働党の人々は来ていなかったそうです。
千辛万苦の末、戦場を一緒に脱出した南北の公館員と家族たちは、モンバサ空港で抱き合って「今まで本当にありがとう」「統一されたら優しい隣人になって一緒に暮らそう」など、最後の別れの挨拶を交わし、しばらく熱くなった同胞愛を惜しがった。
別れがたいよね…
韓国大使のその後
カン・シンソン大使は帰国直後から、「南北共同脱出」をマスコミインタビューを通じて何度も公開していますが、キャリアには全く支障がありませんでした。
カン大使は、ケニアで別れた後も、北朝鮮の人たちが無事か心配だったため、北朝鮮が韓国に世話になった部分だけフォーカスされないように、マスコミに「南北共同脱出」として書くように頼み込んだとのこと。
2021年で84歳のカン前大使は、当時ソマリアで協力しあった北朝鮮の人たちを今でもときどき思い出すそうです。
「南北関係が良くなって行き来ができるようになっていたら、すでに平壌に行って探して会っているでしょう。」
お互い会いたいよね
カン前大使はソマリア大使を経た後、在外国民領事局長、駐チリ大使、駐ホノルル総領事などを務め、1997年に退任後、ソマリア脱出記を描いた長編小説「脱出」を執筆しました。
北朝鮮の外交官たちはどうなったのか?
ここからは当時北朝鮮外務省に在職していたテ・ヨンホ議員のインタビューによる内部事情です。
※テ・ヨンホ議員(駐英国北朝鮮大使などを経て、脱北、2016年に韓国入国。2020年に韓国の国会議員に当選)
消えた乱数本の謎
イタリア大使館まで運転し、亡くなった職員は北朝鮮大使館の無線技師でした。
北朝鮮は1990年代末まで、すべての大使館にモールス信号の送信と解読を担当する専門の無線技師を置いていました。
脱出した公館員らが外務省に報告した内容によると、無線技師の死亡直後、悲しみにくれて気がついてみると、平壌と交信する暗号を解くための本、すなわち乱数本が入ったバッグが消えていたといいます。
当時、通信暗号は命よりも大切なものでした。
キム・ヨンス大使は処罰を受ける覚悟で、平壌に到着するとすぐに”乱数本の紛失”を金日成と金正日に報告しました。
しかし、金正日は「人が死んだのに、乱数本が大事か。生きて帰ってきてよかった」と話したそうです。
その時消えた乱数本の行方は不明のまま、混乱したイタリア大使館の中で、避難民もしくは他国の情報機関が手に入れた可能性があるそう。
思わぬミステリー!!
大使、その他職員のその後
キム・ヨンス前ソマリア北朝鮮大使は帰国後しばらくして退職したので、近況は知ることができないとのこと。
(”ナムウィキ“によると、50代で退職というのは、これが自主退任か強要された退任かはわかりにくい。 金正日が大丈夫だとしても、現地責任者が人命被害を受けて機密資料まで紛失した問題は大きいので、一人で責任をとって退いた可能性があるとのこと。 実際、他の関係者は特に罰せられなかったため。)
韓国外交官の助けを借りて一緒に脱出したことについても、特に処罰は受けていないようです。
映画に登場した北朝鮮の他の外交官のうち、一人は1990年代後半、病気で亡くなり、もう一人は北朝鮮が2000年イタリアと修交した後、初代大使として赴任したとのこと。
脱出中に亡くなった無線技師の妻は、外交部対外通信管理局文書院に入部。(北朝鮮では外交官が海外で死亡すれば殉職処理し、配偶者が希望すれば殉職者の職場に入れてくれるんだそう。)無線技師の子どもは革命学院に送られたとのこと。
ひとまず、処罰されてなくてよかった~!
最後に:事実は小説より奇なり
言葉のとおり、映画『モガディシュ』も例外ではなく、知れば知るほど事実のほうがもっと映画のようでした。
それでもほぼ事実にそって映画化されているのにも驚きつつ、それでいてエンタメとして興行も成功している。
ここでは取り上げませんでしたが、ものすごくリアリティを追求して内戦を再現しつつ、そこに南北のヒューマンドラマにもなってる秀作ではないでしょうか。
韓国の権威ある映画賞で受賞ラッシュだったよ