ホラーが苦手なゆえ、韓国でブームになった時もガマンしていましたが、とうとう見てしまいました…。
「結局、誰が悪霊だったのか?」
「日本人は神なのか、悪魔なのか?」
「あの女の正体は何なのか?」
それに、監督は何を伝えたかったのでしょう?
気になって、韓国メディア、特に監督インタビューを参考に自分なりに考察をまとめました。
この記事を書いている私も、この記事を見つけたあなたも、この映画を考察しようとすること自体、監督が投げたエサに食いついてしまったのかもしれません。
監督はただエサを投げただけで、その後どうなるのかはもう見た人次第なのです。
- ネタバレ記事なので、まだ見ていない方はお控えください。
- 韓国語で鑑賞しているため、字幕と翻訳が違う可能性もあります。
序章:この映画を理解するための前提
意味がわからない?当然です
映画を見終わって、ハッキリしない結末に「???…で、どういうことなんだ?」と誰もが考えるはず。
これこそが監督のねらい。
監督はラストシーンについて、何を信じ、何を疑うか、観客が選択できる余地を作ったと言っており、監督自らも「答えを出すのが難しい映画だ」と言っているんです。
(左がナ・ホンジン監督)
その他シーンも、いろんな解釈ができるように編集されており、例えば謎の日本人について、この時点で観客の何%の人が悪い人だと思うか、いい人だと思うかを念頭において撮影したといいます。
現場でナ・ホンジンには「ここまでは、お客さんは『絶対にこの男はあやしい。この男は何らかのこの一連の事件に関与しているはずだ』という風に疑っています。また、私はそういう風に仕向けようと思っています」「ここからは、お客さんに『あれ?この男、絶対に悪いヤツやと思っていたのに、ひょっとしたら違うかもしれんぞ。逆に被害者の側、あるいは助けようとしているほうかもしれない』と思わせたいのです。だから、そうしてくれ」と言われました。
出典:國村隼インタビュー
最初から監督は、100人いたら100とおりの解釈があると思って作っているため、どれが正しくて間違っているとかはありません。
監督のインタビューでは、質問に対して答えるというよりは、ちょっと別視点からの回答が多くて、理解するのがけっこう難しかったです…。
そこから受け取ったことをかみ砕いてお伝えしますが、私個人の考察も含んでいるため、これも1つの解釈として、あなたが感じた解釈があなたの答えでいいと思います。
いろんな解釈ができるから、おもしろいんだよね
聖書モチーフの受け取り方
映画冒頭から「ルカによる福音書」が引用されていますが、それ以外にも聖書を知っていればわかるモチーフがいくつかあります。
「〇〇だから、この人は聖書の〇〇だ」
そういう謎解きも楽しいのですが、この映画ではそうした直接的なメタファーというより、もっと抽象的な使われ方、共通する事象を表している印象です。
ナ・ホンジン監督自身がクリスチャンなので、聖書について造詣が深いのはもちろんですが、韓国は一番大きな宗教がキリスト教なので、普通の人でも聖書についてある程度知っている人が多いです。
私も調べて考察したのですが、そこまで聖書に詳しくないため、理解不足な点があればご容赦ください。
聖書を知ってたら、また違う解釈ができるかも
事件の真相
日本人と祈祷師イルグァンはグルでした。
監督もインタビューでこの2人の関係を認めており、思えばいろんなヒントを部分的に示してくれていました。
- ふんどし姿
- ミノルタカメラ&写真
- イルグァンという名前
たしかに「祈祷師がなんで”ふんどし”はいてるんだろう?」って思いましたよね。
”ふんどし”はそもそも日本の伝統的な下着であり、日本人がしていても別に変じゃないですが(ビジュアル的にはインパクトあるけど)、祈祷師がしているのはやっぱりおかしいんです。
普通の韓国人からしたら、オムツに見えていたぐらいですから。
それに、日本人が使っていたミノルタカメラ、日本人の家にあった写真を祈祷師が持っていたのは決定的です。
ミノルタカメラも日本のものですが、監督曰く、本当はライカにしたかったけど高かったからだそうです笑
また、祈祷師のイルグァンという名前は、韓国語で”일광(日光)”
偶然にしては、わざわざ日本の”日”がついた名前にする必要はないはずです。
ヒントがあっても、自分が何を信じるかで目に見えてくるものが変わっちゃうんだね
カットされた別エンディング
実はこの2人の関係性、事件の真相自体がハッキリわかる別のエンディングがあったんですが、おそらく答えがわかりすぎるためにカットされました。
荷物をまとめた日本人が、反対車線のバス停にいる家族を見ています。
小さな女の子と目が合った日本人は手招きして、何かをあげようとポケットから取り出しますが、歩み寄ろうとする女の子を母親が止めて、連れ戻します。
じっと見つめる日本人と、反対側の家族。
そこへ白い車がやってきます。
運転手は祈祷師イルグァン。
日本人はゆっくりと立ち上がり、荷物をもって助手席へ。
2人は言葉を交わすこともなく、そのまま車で立ち去ります。
その車が遠くに行って見えなくなる様子を、白い服の女がじっと見つめていました。
これで、日本人と祈祷師の関係性だけでなく、日本人が女の子に声をかけようとしたのがわかります。
この映画の冒頭は日本人が釣りのエサをつけるところから始まります。
映画では真相をそのまま見せていたんですよね。
監督曰く、「表面的なストーリーはとてもわかりやすくシンプルで、だからこそいろんな装置を仕掛けることができた。これだけわかりやすい話でありながら、それを信じることができなくなる装置のせいで、観客のみなさんが何か他の意味があるはずだと思ってしまうエサに食いついたんじゃないかと。一手二手先、いや三手先まで計算しました。もう一度見てみてください。」
それと同時に監督は、「この映画には単純なプロットが必要でした。なぜなら、話がとても難しいから。」
つまり、表面的なストーリーはシンプルでも、そこにある監督の哲学的な思想、何を信じ、疑うのか、観客に投げかけてくる問いが難しいのです。
まんまと監督の計算どおり、エサに食いついちゃったよ
殺の儀式は誰にしていたのか?
日本人と祈祷師がグルだったら、あの殺を投げる儀式は誰に向けてしていたのでしょう?
監督は、誰にしているかは、見る人によってどこにいってもおかしくないように編集したと言います。
いかにも祈祷師と日本人が戦っているかのように見えますが、祈祷師が殺を投げていたのはジョングの娘ヒョジン。
だからあれだけ苦しんでいたんですね。
白い服の女がジョングに目撃した話をしていた時、「儀式をして死んだ」と言っていたのも、一番最初の殺人現場でも儀式の後が残っていたことから、儀式をすればどんな結果になるのかは予想できるものだったとも言えます。
殺を投げている祈祷師の血で真っ赤になった顔も、日本人が生肉を食べて真っ赤になった顔と同じで、ここでもヒントはありました。
実は、祈祷師が杭を打っていたのは「チャンスン」といわれる木の標(目じるしの木)で、村の入口に建てられる守護神のようなものです。
日本人に向けて殺を投げるなら、村のチャンスンを使うのは不自然で、ここはやはり村の人ということになるでしょう。
では終盤、日本人はどうして苦しんでいたのでしょう?
その様子を外で見ていた白い服の女の影響であると考えるのが自然でしょう。
白い服の女の正体
白い服の女が最初に登場したシーンを覚えていますか?
石を投げていましたね。
あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。
出典:ヨハネによる福音書8章7節
つまり、最初からこの女性は罪のない善なる存在なのです。
監督は彼女の正体について、実はビジュアル的にもサウンド的にもガイドしていると話しています。
突如として山の中に現れたり、ジョングに「鶏が3回鳴くまでは家に行くな」と話している時、家に行こうとするジョングを引きとめた時の瞬間移動、その手の色、変わった目の色を見れば、霊的な存在であることは間違いありません。
この女性はムミョンと紹介されていたりしますが、ムミョンとは韓国語で”무명(無名)” つまり、名無しのことですw
この映画では、この女性と日本人だけが名前がないですが、それがつまりは霊的な存在であることの表れでもあります。
この役を演じたチョン・ウヒが、役作りをする上で一番納得したというのが監督に言われたこの言葉、
「この中で唯一の女性じゃないか。女性というのは宇宙万物の救いだ」
言ってみれば、この女性は土俗的な村の守り神、または精霊のような存在。
見ている観客は彼女の言葉が本当なのか迷わざるを得ませんが、彼女は最初から最後まで、本当のことだけを言い、警告していました。
監督は映画の背景となる場所をとても重要視し、この白い服の女性の気を感じられる場所、それも美しすぎてもダメで、原始的で生きている自然を感じられる場所として、祖母の故郷でもあるコクソンを選んだそう。
これがわかると、劇中、俯瞰的だったり、遠景のショットは彼女が見ている視点のようでもあり、コクソンの自然の中に彼女がいるような感覚になるから不思議です。
石を投げたり、金魚草をワナにつかったりと自然のものを扱い、彼女の神出鬼没な行動も納得できますね。
村を守ろうとしていたんだね
祈祷師が殺の儀式をした時に杭を打っていたのが、村の守護神ともいえるチャンスンなので、白い服の女に対して儀式をしているという解釈もあります。
ただ、まだその時点では祈祷師も日本人も彼女に会っていないので、ヒョジンと見るのが妥当でしょう。
鶏が鳴く前に
白い服の女がジョングに「鶏が3回鳴くまでは家に行くな」と言ったシーンは、聖書を思い出した人も多いかもしれません。
最後の晩餐で裏切りを予言するイエスに、ペテロが「あなたのためなら命を捨てます」と忠誠を誓った後、
イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
出典:マタイによる福音書 26:34
そのわずか数時間後に、その通りになってしまった有名な「ペテロの否認」の話です。
ジョングの娘ヒョジンを守ろうとする白い服の女は、ジョングに「鶏が3回鳴くまでは家に行くな」と言いました。
そして鶏が鳴くたびに、あと2回だ、あと1回だ、「行くな。」と再三の警告にもかかわらず、ジョングは否認して家に帰ってしまいます。
ジョングは彼女が着ている被害者の服や、ヒョジンの髪飾りを見て否認に至りますが、服や髪飾りは決定的な証拠ではなく、もし信じていたら、被害者を守ろうとしていたんだと受け取ったかもしれません。
日本人は神なのか、悪魔なのか?
日本人と祈祷師がグルならば、善悪で言えば、明らかに悪です。
でも、それで終わらないのがナ・ホンジン監督、いやこの映画の真髄なのです。
“よそ者”を日本人にしたことについて、ひとつは新約聖書の影響を大きく受けています。イエスがエルサレムに向かっていきますが、その時にユダヤ人がどのように受け止めたのかというフィーリングを活かしたいと思いました。この映画は混沌や混乱、疑惑について描いていますが、イエスは歴史上最も混乱を与え、疑惑を持たれた人物の中の一人ですよね。そういう意味で、見た目は似ているけど全く違うという異邦人が必要でした。見分けるのが本当に難しいものが自分の内部に入ってきた時、敵なのか味方なのか分からなくて混乱しますよね。映画が持っている<混同>というテーマを表現するのにそんな存在が理想的じゃないかと思いました。
出典:『哭声/コクソン』ナ・ホンジン監督オフィシャルインタビュー
監督は、ストーリー上は悪である「コクソンへ来た“よそ者”の日本人」に、誰もが善だと知っている「エルサレムに来た“よそ者”のイエス・キリスト」を重ねて描きました。
日本人もイエスと同じように人間の体を持ち、死んだ後に復活、しかも聖痕(十字架にかけられた時の痕)まであります。
なぜか。
実はここでは、善か悪かというのは重要ではありません。
えっ、どういうこと?
”よそ者”が来てから、死人がよみがえったり、信じられないようなことが起こっている― そんなウワサ話を聞いて、結局”よそ者”を殺してしまった…
日本人に対するコクソンの人々がしてきたことは、イエスを十字架にかけてしまったエルサレムの人々の混沌、混乱、疑惑とまさに同じ。
監督が見せたかったのは、この時のカオスなのです。
比喩だとはいえ、こんなふうに描くなんて…すごい
助祭ヤン・イサムの役割
目立たない人物と思いきや、実はこの人がかなりのキーパーソン。
神の言葉を伝える助祭であり、日本語を翻訳して伝える通訳者である彼は、唯一日本人と直に話せる人物でもあり、意味を伝える役割があると考えられます。
これは韓国で第一人者である映画評論家イ・ドンジンさんの解釈なんですが、このヤン・イサムという名前が重要なんじゃないかと。
なぜなら、名前を言った時にジョングが「本名か?」とわざわざ聞くシーンがあり、名前が重要であるヒントをくれているから。
おもしろくなってきた!
ヤン・イサムという名前は韓国でも変わった名前です。
韓国語で数字の「1.2.3」が「イル.イ.サム」なので何か数字っぽく、「ヤン」というのは漢字の「両」つまり「2」の意味もあるんです。
つまり、「ヤン・イサム」は「2.23」
イ・イサムでは名前がおかしすぎるのでヤン・イサムになったと思われ、聖書の引用が多いこと、イサムが助祭であることからも、これは聖書の「2章23節」を示すのではないか。
聖書で最もよく引用されていて、特にホラーや黙示録的な状況を扱うなら、「ヨハネの黙示録」である可能性が高いと!
うわー!
また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。
出典:ヨハネの黙示録 2:23
実は悪魔を見たのも、そう呼んだのもイサムだけであって、その前は悪霊と呼ばれていました。
では、なぜイサムが悪魔に会わなければならなかったのでしょう?
それはイサムが「ルカによる福音書」を知っている人物、助祭だったからです。
つまり、人によってどう見えるかは違うということ。
神が「ヨハネの黙示録2.23」で言っているように、一人一人に応じて見せて返してくれているのです。
ドンジンさんは「違うかもしれないけど笑」って言ってたけど、合ってるっぽい
もし仮に神が目の前に現れても、見る人によって見え方が違うし、場合によっては、その神的存在は何もしていないかもしれません。
ただその人の信じるものを見せてくれているだけ。
イサムは自分の心の疑いを目の当たりにして震えながら、最後に口から出た言葉は「主よ…」。
神がそう見せているのか、それとも悪魔の口を使って神が話したのかはわかりませんが、「私は私だ」という言葉は神の言葉ではないでしょうか。
ここで何を信じるかも、まさに観客にゆだねられているよね
監督はなぜこんな結末にしたのか?
監督は前作『チェイサー(2008)』『哀しき獣(2010)』では加害者に、コクソンでは被害者に焦点を当てました。
なぜ、被害者にならなければならなかったのか。
ほとんどは加害者が、ある理由で、ある心理状態で、何かをしたから、被害者が被害を受ける原因になってはいるけれど、そうではなく、
被害者が被害を受けなければならなかった”被害者の理由”は何なのか。
ジョングは問います。「なぜ、どうして俺の娘なんだ!」
祈祷師曰く「奴は釣りをしているだけで、娘はただエサに食いついただけだ」
つまり、偶然であって理由はありません。
監督は、人間の存在がなくなろうとしている時に明確な理由がないとなれば、これは人間が存在する理由と関わる大きな問題だと考え、いろんな宗教の聖職者たちに会いにネパール、日本にも行ったそう。
実際にあった事件を見せて、「なぜこの人は亡くなったのですか?」と。
聖職者たちの宗教における解釈は完璧なものだったにも関わらず、監督は納得できなかった。
それで、こう神に訴えたいんだと。
「神よ、(信じられないような事件が起きている)今ただ見ているだけでいらっしゃるのですか。あなたの善と悪が、あなたの存在理由が、とても深刻に疑われています。今、存在を証明して、この事件について解明をしてください。」
これが監督の考える映画のエンディング。
監督曰く、この映画を見た観客が思った疑問、嘆き、口から出た全ての言葉は、この映画が神に対して言いたいことと同じだと。
この映画は答えを神に問いているんだ
エンディングに託した思い
監督はまた、最後は遺族に対しての慰めになることを望んだそうです。
「この2時間を超える時間ずっと、あなたが父親としてどうにか娘を助けようと、死に物狂いで奮闘し、努力してきたのを見ました。結果はこうなってしまいましたが、あなたが悪いのではありません。立派な父親でした。」(監督の心の声)
それで、最後はジョングのアップで幕を閉じます。
でも監督、これじゃ慰めになってないんじゃ…
モチーフ&装置 追記
洞窟、3日など聖書をモチーフにしているものは他にもありますが、特に印象的だったものを追記しておきます。
ヒョジンの怪奇行動の始まり
ヒョジンが「誰かがずっとドアをたたいて、入って来ようとする」と暴れた夜の翌朝、今まで嫌いだった魚を爆食いしていましたよね。
見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
出典:ヨハネの黙示録 3章20節
聖書ではイエスを迎える話のようですが、ヒョジンは悪霊を迎えてしまいました…。
ちなみにすごい演技を見せてくれた子役のキム・ファニですが、演技の時は監督がお母さんに説明し、お母さんがどう説明したかを監督が確認してから、撮影したんだそう。
子役は精神的に大丈夫かな?と心配になるほどの熱演でしたが、監督だけでなく、お母さんもキム・ファニもクリスチャンだそうで、いっしょに祈ったこともあるそうですよ。
ちょっと安心~
写真の装置
日本に限らず海外でも、写真を撮ると魂を吸い取られるというような迷信があったようです。
この映画でも、被害者はみな写真を撮られており、それが、日本人も例外ではないんですよね。
ジョングは日本人のパスポートを確認した後、日本人の顔も含めて写真を撮っていました。
最後に:『女神の継承』は祈祷師イルグァンの物語
怖さが別次元だという『女神の継承(2022)』は、 ナ・ホンジン監督の原案・プロデュース。
実はこの映画、『哭声/コクソン』の続編として祈祷師・イルグァンの生い立ちを、別の場所・別のキャラクターで撮ったもの。
リアリティある映像を求め、選んだ舞台がタイ、それを表現できる監督として、バンジョン・ピサンタナクーン監督を選んだのです。
コクソンを見たら、もちろんこちらも見たいのですが、私はもう予告編だけでギブアップ、怖くて最後まで見ていられませんでした…。
耐えられる方はぜひどうぞ!
『女神の継承』のスピンオフも準備してるんだって